目に映るものしか見ない
〜割れた窓〜
19世紀フランスの経済学者フレデリク·バスティアの「見えるものと見えないもの』に倣い、
割れた窓ガラスを取り上げることにする。
悪童がレンガかなにかを投げつけて、パン屋の窓ガラスを割ったとしよう。
パン屋の主人は怒って飛び出してくるが、いたずら小僧ははやくも逃げたあとだった。
近所の人が集まってきて、野次馬的な好奇心満々で割れた窓やパンの上に飛び散ったガラスをのぞき込む。
やがてみんな、もう少しまじめに考えないといけないぞと感じる。
そして何人かが、
窓を割られたのは不運だったが、悪いことばかりでもないと言い合う。
たとえば、
そら、ガラス屋が仕事にありつくじゃあないか。
そこからはじまって、筋書きは発展する。
新しいガラスはいくらぐらいするだろうか。
250ドルといったところだろう。
結構な額だ。
それにそもそもガラスが全然割れなかったら、ガラス屋はやっていけない。
となると当然ながら、この話は延々と続く。
250ドル払ってもらったガラス屋は、そのぶんかそれ以上を別の店で使うだろう。
その店の主人はまたそのぶんを……という具合で、割れた窓ガラスは、次第に大きな範囲で収益と雇用を生むことになる。
この筋書きの論理的な結論を導き出すとしたら、こうなる。
ガラスを割った悪童は、
町に損害を与えるどころか、利益をもたらしたのだ、と。
ではここで、違う見方をしてみよう。
ご近所の人たちが最初に考えたことは、
正しい。
このちょっとしたいたずらは、
とりあえずどこかのガラス屋の仕事を増やす。
誰かが死んだと知って葬儀屋が喜ぶように、
ガラス屋はガラスが割れたと聞いて喜んだだろう。
だがパン屋の主人は、
その250ドルで新しい礼服を仕立てるつもりだった。
ガラスはどうしても嵌めなければならないから、礼服(あるいは同等の他の品物でもよい)なしで済ますしかない。
パン屋の主人は、窓ガラスと250ドルの両方を持っていたのに、いまや窓ガラスしかないことになった。
ガラスを割られたその日に礼服を注文するつもりだったことを考えると、窓ガラスと礼服の両方を手にする代わりに、窓ガラスのみで満足し、礼服はあきらめざるをえなくなったのである。
パン屋の主人を地域共同体の一員と考えれば、この共同体は仕立てられるはずだった礼服を失い、貧しくなったことになる。
つまり仕立て屋への注文が取り消されてガラス屋に注文が来ただけで、新しい「雇用」はどこにも生まれていない。
近所の人たちは、取引の当事者であるパン屋とガラス屋のことしか考えず、
仕立て屋という第3の当事者がいる可能性に思い至らなかった。
なぜなら、
仕立て屋は表舞台に登場していなかったからである。
人々は、翌日か翌々日にもパン屋に真新しい窓ガラスが輝くのを見るだろう。
だが注文されずに終わった礼服を見ることはない。
人は、直接目に映るものしか見ないのである。
(ビジネス寓話50選より抜粋)
経験がないことや、想像が出来ないことを聞いたりすると、
まず、
そんなわけない。
という思考のクセがあります。
こちらにフォーカスがあてられるのか、
さらに発展的に捉えることが出来るかでは
大きな差を生み出すことは間違いありません。
もし、これが本当にそうなったらどうだろうか。
そのことがもたらす利益を描けるようになったら、、、。
感情は理性を上回ります。
エンスージアズムは目に見えないものとして、相手に伝わります。
心構えこそすべて
鈴木康介